ダイヤモンド・婚約指輪完全ガイド

カルティエ(CARTIER)フランス

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ブライダルジュエリー

カルティエ(CARTIER)フランス  創立1847年

略歴

1847年、ルイ・フランソワ・カルティエがフランス・パリ、モントリゲイユ街29番地で創業。2代目のアルフレッドに続く3代目の3兄弟の時代より、カルティエは世界的なブランドとして成長を遂げました。長男ルイがパリ、次男ピエールがニューヨーク、3男ジャックがロンドンと大都市に分かれ、カルティエの名声を世界へ広めたのです。

カルティエのジュエリーデザインの歴史はヨーロッパの時代的背景、特に女性のファッション史と切り離して語ることは出来ません。カルティエが創業した19世紀は、宝石はまだ王侯貴族や大金持ちのものであり、社会的地位や富をあらわしていました。それを着ける女性たちも自分の意志や嗜好でつけるというより、夫の地位や富の象徴としてつけさせられており、いわば彼女たちも男性の飾りであるという要素が大きかったのです。そのため19世紀はカルティエやブシュロンを含め、ジュエリー界全体が個性的なものでなく、保守的で伝統的なデザインを主流としていました。

19世紀後半、カルティエは当時新しい貴金属であったプラチナをいち早くジュエリーに取り入れ、レースのような繊細な透かし柄の「ガーランドスタイル」の見事なジュエリーの数々を生み出します。これはジュエリー界の革命的な出来事でした。そして1902年に、イギリスのエドワード7世の戴冠式用ティアラを製作。また1904年、イギリス国王エドワード7世の御用達となって以来、ロシア、スペイン、ベルギー、ギリシャなど世界17カ国の王室御用達ジュエラーに次々と指名されました。

19世紀末、万国博覧会が開かれ世界中の文化が集まってくると、異文化への興味が高まり、マイナーアートや生活のなかの芸術に注目が集まります。ウイリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動は、家具、織物、ファッション、ジュエリーなどをアートとして新しい世界を切り開きました。ジャポニズムなどの影響を受けたといわれる流れるような曲線の植物のつる草や、花のイメージをもつアール・ヌーヴォー・スタイルが登場し、ルネ・ラリックなどの豊饒な世界が花開きました。

アール・ヌーヴォー時代のジュエリーの大きな特長は、宝石そのものの価値だけでジュエリーを判断するものではなく、多様な材料を自由に使うデザインそのものに価値を置くものでした。この変化はジュエリーが一部の特権階級のものから、大衆に開放されようとする大きな変革といえます。しかし、カルティエはアール・ヌーヴォーの流れを慎重に見守り、控えめに取り入れるにとどめています。アール・ヌーヴォーの次の時代が来ることを予見していたのです。

1899年にカルティエはラ・ペ通りに店を移します。パリのオートクチュールの草分けであるワースのお店に近い場所です。そして、ルイ・カルティエはそのワースの孫娘と結婚をしたのです。これはジュエリーとファッションの結婚であり、その結果、カルティエはファッションに一番近いジュエラーとなりました。カルティエは、キュビズムなどの流れとともに注目されていたオリエンタル趣味を研究し、前衛的な芸術の流れと調和した確固たるモダン・スタイルの作品を制作し始めました。このとき、ルイ・カルティエの良きパートナーとなったのは、アール・デコの優秀なデザイナー、シャルル・ジャコー。インド、マハラジャの財宝を使用した「フルーツと花」、中国文化に影響を受けた「龍」、「鳳凰(ほうおう)」、日本の印籠(いんろう)をヒントにした 「ヴァニティ・ケース」 は、根付部分は口紅入れとしてデザインされ、独創的な女性用の小物入れとして製作されました。プラチナに小粒のダイヤモンドをびっしりと埋め込み、エナメル仕上げされた作品は、その当時、目新しく斬新なデザインとしてカルティエの人気を高めました。

1913年に初めて作られた 「ミステリー・クロック」 なども、日本の布袋像や鳥居をモチーフにしてデザインに取り入れ人気を博し、また、インド文明と同様、ペルシア文明やエジプト文明など色彩豊かにカルティエのデザインバリエーションに加わったのです。同時に、天然真珠、翡翠(ひすい)、珊瑚、漆、真珠母貝など、今までになかった素材を大胆に使うことにで、より独創性を高めています。宝飾品と並んで主力商品であるカルティエの腕時計の生産は、1888年から始まりました。

1911年には「サントス」を一般に発売。この原型モデルは1904年にパリ全土が注目したルイの友人でもある飛行士、サントス・デュモンのために作ったものです。飛行中でも操縦桿を握りながら時間を見ることができる。つまり、懐中時計しかなかった時代に時計を腕に巻く、という発想をしたのがカルティエです。

1917年、第一次世界大戦を迎えたルイ・カルティエは、連合軍の「戦車」に、すべての贅肉をそぎ落とした美を感じました。戦車のイメージから、あのシンプルな直線の機能美を備えた「タンク・ウォッチ」は生まれたのです。

そして、1920年〜30年代にアール・デコの時代が訪れます。「直線とは、ひとつの表現方法である」とココ・シャネルが宣言した時代は、カルティエが最も輝いていた時代のひとつです。この時、ルイ・カルティエは、すでにアール・デコ様式の第一人者のひとりとなっていました。

1925年のアール・デコ展では、ジュエラーの仲間とではなく、ワース、ランバンといった服飾デザイナーらとともに「エレガンス館」で展示。20世紀にジュエリーがファッションの一部となることを予見していたのかも知れません。さらに、カルティエにとって大きな意味を持った人物の一人に、ルイの献身的な協力者、ジャンヌ・トゥーサンがいます。1910年にパリの店に入った彼女はココ・シャネルとの親交もあり、新しい女性がどんなファッションを選び、どんなジュエリーを選ぶのかをルイ・カルティエに助言します。さらに彼女は「パンテール」を代表とする動植物のコレクションなど、独創的なジュエリーを作り出したのです。

また、詩人ジャン・コクトーもルイに大きな影響を与えた人物のひとり。1924年、彼の依頼により誕生したのが、現在でも世界中で愛されるスリーゴールドの「トリニティ・リング」なのです。「トリニティ」は、キリスト教の定義である三位一体(父と子と精霊)を意味する言葉。父とは神、子とは人のことで、リングに使われている3ゴールドがそれぞれ「忠誠」「友情」「愛」の意味を含んでいます。そして1929年、ウォール街での株式大暴落により20年代の幸福感が一気に崩壊するなか、女性たちの中で注目を集めたのがトーキー映画の女優たちでした。彼女たちはスターとなり、最新ファッションの火付け役として賞賛されました。白黒映画最後の傑作といわれる「サンセット大通り」で主人公を演じるグロリア・スワンソンは、カルティエのブレスレットつけています。ディートリッヒや、「熱砂の舞」のルドルフ・ヴァレンティノ、「美女と野獣」のジャン・マレー、「お熱いのがお好き」のマリリン・モンローなど、挙げればきりのないほどカルティエと映画の関係は多く、そして長く続きました。

1969年には、恋人達の強い絆をビスで留めたブレスレットで象徴するという斬新なデザインのジュエリーを発表。ビス・モチーフのブレスレットは、混沌とした時代背景の中、瞬く間に世界中の恋人たちから熱い支持を得ました。

1960年代に入るとカルティエ一族が三代にわたって経営した 「カルティエ商会」 は、徐々に人手に渡っていきます。しかしながらカルティエの芸術は、一世紀をこえる伝統を守る後継者によって今も生き続けており、現在でも世界的ブランドとして多くの人々の憧れの対象となっています。現在、日本の海外ブランドでは腕時計の売上げがナンバーワンです。

代表的な商品

  • トリニティ
  • タンク
  • パンテール
  • ビス・モチーフ(ラブ)
  • サントス
  • パシャ
  • メノット
  • Cシルーズ

愛用しているセレブ

  • エリザベス女王、ウィンザー公爵夫人、小室哲哉ご夫妻婚約指輪、浜崎あゆみさん、梅宮アンナさん、他

カルティエのジュエリーの魅力はデザインにあります。常に時代を予見し、古くから培われてきた模倣なきモダンテイストは、ジュエリーにして女性のみならず、男性にも愛されるという特長をもっています。そのためシンプルな地金リング「トリニティ・リング」や「ラブ・リング」は、結婚指輪として選ばれることが多いのです。日本がまだ今より貧乏だった頃は「カルチェ」と呼ばれ、ベルトや財布など年配男性のブランドであった時代から現在の高級路面の店舗展開まで、日本におけるブランド展開の巧さはさすがです。

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