ダイヤモンド・婚約指輪完全ガイド

ダイヤモンドの歴史

ダイヤモンド・婚約指輪完全ガイド

ダイヤモンドはおよそ40億年以上も前から地球上にあったといわれます。ことの真相は定かではありませんが、宇宙から降ってきた隕石にダイヤモンドが付着していたという説や、科学的分析の結果、ダイヤモンドが地殻変動によって結晶化したという推論を一度は耳にしたことはないでしょうか

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ブライダルジュエリー

文献によると紀元前に「どんなに叩いても割れない石」がインドの川原で発見され、それが最初に発見されたダイヤモンドだというのが定説です。

ダイヤモンドの産地

インド

ダイヤモンドが発見されてからのインドは、かつて18世紀前半頃まではダイヤモンド産業が盛んでした。ダイヤモンドが昔「インド石」という別名で呼ばれていたのは、ダイヤモンドがインドでしか採れないと信じられてきたからです。当時は、まだカッティング技術が発達していなかったので、石の表面の光沢感を導き出すことが主で、ダイヤモンドの輝きを最大限に引き出すものではありませんでした。また、ほとんどのダイヤモンドが発見の発端となった火山から離れた川原にある漂砂鉱床から採掘されたため、川原付近で簡単に見つけ出せるダイヤモンドしか流通しませんでした。その結果、採掘できるダイヤモンドの量は現代と比較すると極めて少なかったのです。

ところが採掘が困難になるに伴って採掘技術が向上し、ダイヤモンドの採掘量を増やすと同時にサファイアやルビー、トパーズの採掘も盛んに行われました。古代インドの王冠をはじめとするジュエリーやお城などの建造物に贅沢に用いられ、インドは宝石大国にふさわしい国でした。ただ、17世紀頃までは世界的にカッティング技術が未熟で輝きに満ち溢れた宝石ばかりとは言えず、シンボルと呼べる大きな宝石が主流。今日でもインドの宝石バイヤーとの取引では、目方(キャラット数)のある大きな石になると値段が高くなるのは当時の名残でしょうか。

こうして現在、インドはダイヤモンドの主要産出国としては陰をひそめた感はありますが、良質なメレ−ダイヤモンドのカッティング地や世界中のダイヤモンドが取引される集散地へと変化をとげ、宝石の文化を今もなお継承しつづけています。

古代ヨーロッパから中世ヨーロッパ

インドから古代ヨーロッパのギリシャへ、ダイヤモンドが海や陸から遠路はるばると渡ってきたのは、同じくまだ紀元前のことでした。ダイヤモンドの語源の「adamas(征服されがたいもの)」は、ちょうどこの頃に広まったといわれています。ダイヤモンドは英語で「diamond」。古代からの語源や語意、語感などが受け継がれていることがお分かりでしょう。この征服されがたい硬い石ダイヤモンドはインドの迷信が受け継がれ、病気や天災から身を守る護身符や魔よけとして人々の間で広まりました。この頃のダイヤモンドは、まだ原石をかたどった正八面体の石やそのカケラそのものでした。その後、原石の正八面体を半分にカッティングしたポイントカットが施されたダイヤモンドが教会建造に使用されたり、ジュエリーにセッティングされたりするようになってきましたが、いまだ宝石としての位置づけは低いものでした。

やがてゴシックの時代から14世紀に入り、中世ヨーロッパではダイヤモンドは一部の貴族たちの頭飾りにセッティングされるようになりました。この14世紀にダイヤモンドは試行錯誤されつつ研磨され、1412年の記録ではダイヤモンド原石の正八面体の先端を平らに磨いたテーブルカットが出現。のちに菱形の面をもつポイントカットなどダイヤモンドのきらめきの美しさを表現したカット方法が開発されました。

ルネッサンス時代の幕開けから終わりまで、繊細かつ華々しいジュエリーが装飾として貴族など一部の特権階級の間で活躍しはじめたなか、ダイヤモンドはまだ脇役に過ぎませんでした。真珠やエメラルド、ルビー、サファイアなどが貴族たちの装いや華やかなデザインを飾る確固たる存在であることは間違いなかったようです。その陰で、ダイヤモンドはヨーロッパ各地で政治や経済、宗教的な理由により場所を変えながらも次第に発展していきます。

16世紀には「ローズカット」、17世紀には「ブリオレットカット」の施されたジュエリーが見つかっています。ポイントカットはシングルカットと呼ばれる17面体にカッティングされたものへと進化し、ダイヤモンドは輝きをみせるカッティングスタイルへと変化を遂げました。

1700年頃、ベネチアのビンセント・ペルッチによってダイヤモンドの「ラウンドブリリアントカット」が開発されました。輝きを追求したこの画期的なカッティングスタイルのダイヤモンドは、ろうそくの照明で過ごす時間が増えてきた社交界の花形たちに当然のように受け入れられ、光と明るさ、飽きのこない色合い、そして優雅な曲線美のデザインが志向されてきたことを背景にジュエリーの主役に躍り出たのです。

18世紀からはインド以外の採掘地の発見を足がかりに安定した大きな経済基盤のもとで、ダイヤモンドの採掘量は圧倒的に増加しました。加えてカッティング技術の向上により、ヨーロッパ全域では莫大な外貨の獲得とともにジュエリー文化の発展はいちじるしく加速します。ヨーロッパが現在もなお、ダイヤモンドにとって最も重要な場所であることは言うまでもありません。

ブラジル

インドでしか採れないとされたダイヤモンド神話が崩壊したのは、18世紀前半にブラジルのミナスジェライス州のある鉱山でダイヤモンドが発見された直後からでした。この発見により当時ブラジルを直轄していたポルトガルが、数年にわたりダイヤモンドを独占。多くのダイヤモンドがヨーロッパに流出し、その価格は下落していったと言われます。

その後、ダイヤモンドの採掘はブラジルで約百年間盛んに行われます。現在はダイヤモンドの主要産出国としては陰をひそめましたが、このミナスジェライス州はとくに半貴石の産地としても歴史的に伝統があり、宝石の取引も盛んなところです。現代のダイヤモンドよりも稀少価値があるとされる「パライバトルマリン」を産出したのもこの地。こうして変化をとげながら宝石文化を今もなお継承しつづけています。

南アフリカ

19世紀半ば、ブラジルのダイヤモンドの鉱山からの採掘が、急激に落ち込み始めた直後の1866年、南アフリカのオレンジ川の川原で、ある農家の子エラスムスは偶然、乳白色に光る大きな石を見つけました。なんと、この石は21.25キャラットあったのです。のちにこのダイヤモンドはリカットされ10.73キャラットの「ユーリカ(しめた!見つけたという意)」と名づけられ、世界的に有名なダイヤモンドとなります。

3年後の1869年には、同じオレンジ川の近くで羊飼いのブーイによって83.5キャラットの大きなダイヤモンドが発見されました。のちにこのダイヤモンドは47.75キャラットのペアーシェイプ(涙型)にリカットされ、「南アフリカの星」と名づけられ有名になります。

「ユーリカ」が見つけられた当時は、まだダイヤモンドの採掘場としての関心は高まっていませんでしたが、「南アフリカの星」が発見された直後に南アフリカの議会で『諸君、このダイヤモンドは、南アフリカに将来の繁栄の基盤をもたらす石である』と宣言されます。これを契機に世界各国の探鉱家らがオレンジ川に集まり、まさに無法地帯にあるかのごとくダイヤモンドが採掘されはじめたのです。

さらに南アフリカでは、「デビアス」、「キンバリー」、「デュットイッパン」、「デルトフォンテーン」などの多大な埋蔵量のある鉱山が発見されました。

そして1890年には南アフリカがダイヤモンドの産地として押しも押されもせぬ地位が確立される「プレミア鉱山」が発見されるのです。

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